幸福論

ライヴレポート、独りよがりな歌詞解釈、イベント参戦の記録 THE YELLOW MONKEY・吉井和哉・L'A・金爆・MUCC

創作背景と対価

作品の背景に物語を見出して愉しんでしまうきもちについて、全国ツアーの大阪城ホール公演終了後のブログにもかいたけど、このほど翔くんがそのことについてわかりやすくラジオでお話していたので、改めて考えてみたくなりました。

まずね、なんにでもそう期待しているわけではないの。

裏を読んでやろう、みたいなきもちが常にあるわけではないの。

伝わる限りの事象を読み取るのが好きなだけで、過剰な演出や脚色はもう、パロディというか二次創作で愉しむスタンス。現実と二次元、三次元はきっちり切り離して愉しめる性質です。ナマモノ同人の創作活動をしていたわけだしね。

ナマモノ同人の危険なところは、それを知らないひとに、事実として誤解されてしまうこと。こういうことがあったらしいよ、ネットで読んだの!なんてピュアピュアちゃんがなんの知識もなくホモネタを伝播してしまったらと考えると恐ろしいよ。

創作の背景が、作品より先にこちらに届いてしまうのはたぶん、演出の問題だものねぇ。前置き、前書きが必要な。それを踏まえてご覧くださいっていう。THE YELLOW MONKEYならジャガーハードペインってアルバムがそうだったのね。戦争で死んだジャガーの魂が、1994年の現代に飛んできて云々、という設定が歌詞カードに挟まっていて、それを目にしたときの物語を読んだような胸の充実感は今でも忘れない。

翔くんがいっているのは、苦労して生み出された作品だから評価される、とか、なんのドラマも持たずに生まれた作品だから軽んじられる、というのはオカシイ、ってことだよね。

ある作品に触れるきっかけとして、背景が前面に出てくるのは枕詞のようなもので、あんまり深い意味はない、結局中身(作品そのもの)が重要だとおもうのだけど、なかにはその背景を含めてひとつの作品とする見方も、プレゼンの仕方もある、ということよね。どちらが正しくてなにかが卑怯で、とはやっぱりわたしは白黒つけられないなぁ。どちらの表現も、いとおしく思う作品はあるし、きもちを萎えさせる作品もあるし。

作者さんのバックグラウンドはひとつ、根底に大きななにかがそびえていて、その哲学ないし生き様を崇拝しているから、その作者さんから生み出される作品のすべてが大好き、っていう信仰心がめちゃくちゃリスキーだっていうことしか、わからないな。だってそれが覆ってしまったら、その哲学が変わってしまったら、好きだった作品まで、好きじゃなくなるかもしれないじゃない。裏切られた、うそをつかれた、と、へんなふうに考えが及んでしまいそうじゃない。

たとえば孤独を受け入れて生きると宣言して、それを創作における重要な哲学のひとつとしていたひとが、幸せな結婚をしたら?

孤独なひとの結婚生活とはなんぞや、その未知なる領域を表現して見せてほしい。愛し愛されてもなお孤独である、などといった哲学は果たして、と、その後の創作活動にさらなる期待を寄せる。

一生孤独だって、誰からも愛されないっていったじゃない!うそつき!愛し愛されるひとが見つかったなんて幻滅!もう知らない!

ねえぇ。クリエイターを好きになるということは、そのひとの変幻してゆく様を見守ることなのではなかろうか。変わらないでいてほしい部分も、変わっていって、違う表現を作品を見せ続けて飽きさせず夢中にさせてほしい部分もあるよ。その変幻ないし成長が肌に合わなければそっと離れればいいのよ、誰も何も悪くないし、愛した作品はそのときそのひとに作られた嘘でも何でもない尊い作品だし、それに支えられた時期や記憶は本物だし、無駄だったと恨むことこそ意味がない。

で、何に対して消費者は対価を支払っているかという点もおなじでね。

音楽が聴きたいだけならネットでダウンロードできるから、CDをパッケージとして買わなくてもいいのよね。

そこを敢えてかさばるパッケージを購入するのは、いろんなきもちがあるとおもう。特典が魅力的だったり、ランキングに乗せたくて、応援したいきもちからだったり、コレクター心理だったり。

尾田栄一郎先生がね、担当編集者が変わるたびに、「ぼくに意見はいわないでね」ってご挨拶する、とSBS内でおっしゃっていたの。まんがの評価として、おもしろかったら自分の手柄、つまらなかったら自分の力不足、そういうわかりやすいのが好き、と。それを翔くんもやりたいんだろうなぁ。

音楽がいいのは根底にあって、そこにメンバーの人柄とか視覚的演出が楽しくて、ますます好きになっていくんじゃないかなぁ。入り口として視覚的な楽しさがあるのってとてもキャッチ―でいいよね。いい武器をたくさんもっているチームだよゴールデンボンバーさんは。対価を支払いたくなる魅力がたくさんあるバンドよ。

ひとりよがりを観たとき、じわじわと幸福が胸に湧きあがったのは、歌声を失いかけた翔くんが一年越しにひとりよがりをぶじ開催できたこと、それ自体が奇跡のようでうれしくて、特別な感情に心を震わせてしまったけれど、そのことは翔くんの表現したい音楽の本意ではないのだなぁとおもうととても申し訳なくわたしは卑しい人間だなあと反省するばかりです。咲いてをやったのは、FC限定で披露したときすでに喉を傷めていたから、そのリベンジなんだろうなっておもっちゃったもん。全国ツアーでだからバイバイをやったのも。ああ、深読み。卑しい。でも愉しみかたは変えられない。せめて事実がどうであれ、作品や作者を恨むようなまねだけはしないでいよう。極個人の愉しみかたであり、へんにコミュニティを形成してなれ合うようなこともしないよ。いつだってこの愛はさみしい。いつまでも報われないで、ただいい曲を聴かせてもらってしあわせで、楽しませてもらってありがとうとおもっているよ。

翔くんの理想のファンでいられなくて情けないけれど、好きに愉しませていただくスタンスは変えずに、これからも彼らを生ぬるくたいせつに見守っていけたらいいな。

乙武洋匡さんのブログがとてもわかりやすく、かつわたしの卑しい心を「それでもいいんじゃないかな」とおっしゃってくださっていたので、この記事をかくに至りました。

翔くんのラジオを聞いたときは、じぶんの城ホのブログ記事をおもいだしてド赤面していたばかりだったのだけど、乙武さんに救われた。捨てる神あれば拾う神あり。

http://ototake.com/mail/388/

もちろん、卑しい心を開き直る気はありませんよ。恥じながら、詫びながら、そっと見守りたい所存です。たまに見せた汚い心を美しいと思ってもらおうなんて虫が良すぎる。でもごめんね、愛してる。