幸福論

ライヴレポート、独りよがりな歌詞解釈、イベント参戦の記録 THE YELLOW MONKEY・吉井和哉・L'A・金爆・MUCC

101回目の呪いPVについての考察

101回目の呪いのPVを見たらまた考察欲がむらむらわいてきたのでひとりごと語らせてもらうよぅ(^-^)

心が折れそうで、踏切の前に立ったとき、寸前で思いとどまらせてくれたのはゴールデンボンバーの曲でした――。

どうしようどうしようって膝を震わせる、目線をスマホの画面に移す、青ざめた表情がほっとゆるむ。あの女優さんの表情すごくよくて、ボンバーさんに救われたことがあるひとは感情移入してしまうとおもう。もちろんわたしも。

生活がうまく立ち行かないとき、支えになるのは生活感のない場所だもの。自分の心の拠りどころは、つらい生活から遠いところがいい。思い出したくない、考えたくないからね。

翔くんの詞は、自分は報われなくてもいい(見返りは求めない)、きみが元気になることにぼくの歌が役立つならいくらでも歌うよ、というとても頼もしい内容。やみくもに世界を救うわけではない、僕を頼ってくれるきみ、を救う歌。とてもあたたかくてやさしくて、力強くて心強い。

呪いでいい、しもべでいい。この~でいい、という報われない方向性にこそ翔くんらしさをかんじます。翔くんのしあわせってなんだろう、何をもってして報われたと充足感を得るのだろう。表現して、ひとのこころになにかを響かせる、ひとの心を動かすこと、がクリエイターとして、音楽家としての幸福であるならば、個人の幸福とは。

101回目の呪いのPV、最後のシーンは、絶望的な鍵盤のアウトロに乗せて、つらい生活のなかで身近だったなやみ(職場の人間関係)がうまくいくところでおわるのだけど、そのときのゴールデンボンバーの存在の扱いがものすごく「~でいい」なの。曲だけを聴くと、悲しく、ショッキングに響くピアノの音に、救いたいという願いは叶わなかったのかなとおもっていたのだけど、ひとひねりされていて、さすがだなぁと。

粉々になったスマホは、やさしい表情の職場の女性に手を引かれたときに落としてしまって、線路に置いて行かれる。これってとても象徴的じゃないかしら。

生活の中までは入っていけない。きみが元気になったのならよかった、ぼくはもう要らないね、ですよ。

この孤独な距離感にある種の心地よさと歯がゆさ、もどかしさをかんじて、愛さずにはいられなくなる。

翔くんの「~でいい」というあきらめみたいな達観したきもち、わたしもすっごくあるから、その塞ぎ込んだ心の扉をなんどでも叩いてほしいし叩きたくなる。自分は閉じたまま、相手をこじ開けたくなる。愛されないと知りながら愛したくなる。

愛される自分なんて想像したこともない。だからどんなに不当な扱いをうけても絶望しない、希望や期待がないから(恋愛や友愛を含む人間関係のみ←重要)。

バンドが大きくなって、喉のことがあって、翔くんの覚悟が顔つきに表れるようになった2012年の秋ごろから、わたしこの子にそれまで以上に大好きよと伝えずにはいられなくなったのだけど、どれだけ伝えてもふわっとしちゃうのは、たぶん愛されないとおもっているからだろうなと。告白は慣れたものと言わんばかりにきみはありがとうとただそれだけだから、これからどんな愛を見せていこうかなと、こちらは手をこまねいているところ。

ぜったい大切にする。もう要らない、ぽいって放られる未来を、「ほらね」ってさみしげに、わかってたよって顔で受け止めてほしくない。

…でもね、覚悟していたとおりの悲しい未来が現実になったときに「ほらね」っていいたいきもち、すんごいわかるんだ。だから「~でいい」の。共感したからこのPVとても痛快だし鳥肌たったの。もちろんそんな未来は望んじゃいないけど、女々しくての呪いMVからの流れをくむと猛烈に痛いところをついている気がして。

握手会いけたら、PVの内容に翔くんの御意見はどれだけ反映されているのって聞きたい。あの最後の鍵盤の音、絶望的で、ますます翔くんを好きだと伝えたくなりましたって伝えたいよ。

情熱大陸放送前にアップしておきたかった(^-^)読んでくれたひとありがと(^-^人)

追記

一度スマホ落としちゃって画面にひびが入るのだけど、液晶にボンバーさん映るんだよね。

そのあとに「生きるとはなにか?と~」って。

ひびが入っても歌い続けるの。象徴的だよなぁ。強くてたくましい。だいじょうぶだっていわれているみたい。

粉々になって置き去りにされるオチすら、だいじょうぶだよっていわれているみたい。きみが前に進めるならいいって。