幸福論

ライヴレポート、独りよがりな歌詞解釈、イベント参戦の記録 THE YELLOW MONKEY・吉井和哉・L'A・金爆・MUCC

女々しくての呪いについての考察

BSプレミアムでのゴールデンボンバーへのリスペクトは見ていてとてもここちよかったよね。

バンドだとか、お笑い要素だとかを抜きに、なにを表現しようとしているひとたちなのかをちゃんと聞き出そうとしてくれていた。

だからメンバーもへんに発言を盛ったりねじったりせずに受け答えをしていて、その真摯な在り方がすなおに伝わってとてもよかった。

「なにも考えてません~ヘラエラ」みたいなのはもうおなかいっぱいだしね。

でもそのへらへらした印象が「女々しくての呪い」とおもうの。曲がどうとかではなくて。曲の間にパフォーマンスをする、というのも、それが「ギターソロ」である、という認識はまだ低いみたいで、女々しくてという曲がそう(パフォーマンスをする曲)おもわれていそうでジレンマを抱えていたなぁ、勝手に。外野なのに。

女々しくてが広まり始めた2011年ごろに、どーだすげぇバンドだろ、なんてどや顔していたわたしたちが、女々しくて以外にもたくさんいい曲あるのに!っていうきもちをもやもやとかかえていたのが2012年だったよね。女々しくてを誰よりもだいすきなわたしたちこそ、女々しくての安売りにくやしさをにじませていたのよ。この曲でどこまでもいってほしいというきもちと、へんなふうなイメージつけないでくれ、と心配するきもちで。

女々しくての呪いというMVがまさに痛いところをついていて、一発屋の空気を押し付けようと、軽薄な使い方でその人気にあやかろうというテレビ屋さんの悪意がしっかり伝わっていて痛快な仕上がりになっているよね。

そもそもボンバーさんの売れ方は最初からすごく長期的な戦略をされていて、女々しくて→女々しくての路線でもう一発(ダンジェネ)→愛されるキャラクターと打たれ強さ、柔軟性をテレビで認知される→BSプレミアムに見るような真摯な姿勢→女々しくての呪いMV→101回目の呪い

この流れはもう、世間を圧倒させるすばらしい仕上がりになる気がしています。

だって、あのマイケルさんのぶぶぶーッて嘲笑がどれほどの罪か、マイケルさん側の人たちはいままでだれも真剣に考えていなかったのよ。

こんなふうに扱っていいんでしょ?だってちゃんとしてないんだもんね?みたいな体温だったとおもうの。

これは翔くんも自伝の中で触れていたけど、「芸人さんだったらしばいてもいい、みたいな風潮」がまさにボンバーさんに当てはまってしまったんだよね。正当なバンドではないから軽薄に扱ってもいい、というような。おなじことをラルクアンシエル相手にできるのか、っていうね。

(昔ラルクアンシエルがよくやってたコミカルCMを思い出してじわぁとしたよ)

2012年秋の学園祭スケジュールを敢行させたあたり、身内にもそうおもってるひとがいたのかなぁなんておもっちゃった。あれをどうしてできると判断したのかしら、軽薄にかんがえているとしかやっぱりおもえないもん、ワンマンライブツアーより準備はいらないから楽でしょ?と軽く考えたとしか。猛省してほしいです。

ここで冒頭に戻るけど、BSプレミアムの取り上げ方はほんとうにすばらしかったの。なんでこういうスタイルなの?という問いに答えはひとつで、お客さんを楽しませるため。ほかと同じことをしてもしかたがない、むしろそれは自分たちには不向きと判断したため、このスタイルを考えた。この答えを、なんの色眼鏡も通さずに放送してくれたの。

彼らの誠実さと勇気に対して尊敬の念を抱かないはずがないよ、それで結果を出しているのだもの。

この流れで、101回目の呪い。笑いなし、なんて枕詞はほんとうに要らない、タイトルに不穏なものを感じながら、嫉妬の歌詞かしら、元カレ殺スみたいなかんじかしらとおもわせておきながら、翔くんらしい救いの歌、誰ともわからないひとをやみくもに救おうというのではなくて、溺れるように翔くんに助けを求めるひとを、全力で救おうとしてる。できないかもしれないけれど、ちからを尽くそうとしてる。じぶんのちからはちいさいけれど、きみにとっては救いになればいい、という楚々とした遠慮がちな自信なさそうな、でも助けを求めているほうにとっては絶大な、頼もしさ。

新曲だからちゃんと発売されるまで深く語るのはやめよう。でも来年、世界がひっくりかえる予感に武者震いが止まりません。